いきたひ

松山でも是非映画の上映をと思いをあたためてくださった今治の宇野タオルの宇野さん、そしてその想いを引き受けてくださったしんごままさんはじめ、その仲間とともに形になった昨日。

アナウンサーをされていた、秋田美人の長谷川監督。

とても、とても、魅力的な方で、そのお話、お声、お人柄に引き込まれていった。

アナウンサー時代には、日々さまざまなニュースを読み上げる中、自分のことばで伝えたいことと、伝えることのギャップに苦しみ、作為的な切取り、地方ケーブルテレビでさえスポンサーという存在の重さを感じられれていたそう。

4人のお子さんのお母さんでもある長谷川監督。長女さんが思春期を迎える頃、長年がん患者と向き合ってこられるという漢方医という業に携わっておられた享年47歳のご主人を癌で亡くされた、その記録を映画にされている。

総合公園にて咲き誇るふようの花

この映画は少し特殊で、映画と併せて必ず長谷川監督の講演会がセッティングされ、映画のあと、暗闇の中、会場のみなさんで一体となり行う臨死体験。はたして、いま与えられている今世での命を燃やしきれているのか。いま、呼吸が終わるとしたら、誰に何を伝えたいのか?それぞれの胸に深く落とし込む時間。

産まれて、生きて、死ぬ、その繰り返し。

やがて、私も枯れて、土となり、自然界とひとつとなる。循環に組み込まれた命。

この与えられた体という器を使い、何をするか。今日を生ききっているのか。

命の誕生と出会うとき、病に倒れたとき、大切な誰かを看取るとき、それを深く学ぶ機会となる。そして、当たり前だが、その学びはこの体がなければ感じえないこと。

映画講演に飛び回る長谷川監督。その胸にはご主人さんが宿るという。まさに同行二人を地でいく方。お二人の4人のお子さんたちは今はそれぞれの場所で輝いているという。

コロナ禍で出会ったえひめ村のなかま。

一年とちょっとしか経っていないのに、その時間はもう、ずっとずっと昔からの友人、家族だったかのような感覚さえ覚えてしまう不思議。

童話モモで灰色の男たちが時間貯蓄銀行に時間を貯蓄する概念を広めていくお話があるが、昔読んだ物語が現状と妙にマッチングしていて興味深い。「時間」や「死への恐怖」さえ私たちに植え付けられた概念なのかもしれない。

生と死は切り離され、バーチャルなものになっている。今やコロナ禍であるため入院した大切な人に会うことも許されない。医療や教育、金融は不安定さを極めている。便利さとお金を引き換えに差し出したものは何だったのか。いま、このコロナという「世界的な」「脅威」の正体は、、

わたしたちは孤独や不安、怒りを経験し、闇深く落ちたこともあっただろう。「脅威」は浄化され、ひかりとなるのだ。さあ、わたしたちは、わたしたちが望む過去、現在、未来、どこへでもいける。森のきのこたちの菌糸のように地下深く力強く繋がり、いまこのときを輝かせていこう。

生と死は一体である。

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てんたん

心は旅人。山のこと、東洋医学のことなど気ままに書いてみようと思います。