裸足になる。

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    それぞれの神に繋がる方法

    子どもの頃、近所には小川や畑、まだ牛をかっているところもあったりして、自然たっぷりに野生児のように遊ぶところはたくさんあった。

    コンクリートの隙間からど根性ホトケノザ笑

    土道の近道を道草しながら帰る途中には露草、ホトケノザ、オオバコ、シロツメグサなどの名も知らないような草花や、川には蟹、タニシ、いもりやおたまじゃくし。夏は川で泳いだ。川の水は冷たく、流れや深さも急に変わるので、中には溺れる人もいる。お盆にはカッパに足を引っ張られるからと大人から脅されたりした。生と死を感じられる場がそこここにあった。秋になると、盆地には霧が落ちるようになり、そんな朝は霧が晴れると晴天になる。秋祭りの頃はセーターをだし、こたつ、ストーブを炊き、焼き芋?が美味しい季節。霜柱が立つようになる。足で踏むシャクシャクという音の感触がなんとも言えず楽しい。黄色に染まった銀杏の木の下で遊んだ。冬の夜。雪が降る日はとてもとても静かでしんしんとして、室内にいても吐く息が白い。そんな日の翌朝は一面の銀世界。厳しくも美しい自然。天から降り注ぐ牡丹雪を口でキャッチして、大きなツララでチャンバラした。(すぐ割れる笑)

    そして、なんと!わたしが通った中学は水洗トイレではなくポットんだった。掃除のとき一升瓶に入ったウジゴロシなる液体を入れていた。今思えば衝撃的。30年ほど前の出来事笑。その中学では夏は裸足で過ごしていた。ツワモノ男子は冬も裸足で、雪の中サッカーとかしていた。

    今思えば、色々貴重な体験をさせてもらっていたなぁ。

    岩屋寺のツララ

    大人になり、コンクリートジャングル(というほどでもないが笑)で、スケジュールに管理されるようになると(よくよく考えたら子どもの頃から管理されていたのね笑そーいえば子どもの頃から息苦しかったな。)息苦しさに週末になると山へ逃げ込んだ。息をするために、山に入り、ひとり黙々と歩いた日々があった。(いまはダラダラしている)

    さて、いつも前置きが長いのだが、そんなダラダラな自分に喝を入れたくて、とあるセミナーに参加した。

    愛媛村のワタタケさんがご縁を繋いでくださり、講師の方が10時間にも及ぶその無料セミナーは愛媛でフィナーレを迎えた。

    講師の方の「存在」そのものが魅力的、且その方の「体」が説得力に満ちていた。以前、お金ってなんだろうの記事を書いたがそのセミナーを無料で行う意味を語られたときにそのヒントをいただいたようにも思う。

    キーワードは「循環」。

    これはえひめ村のコンセプトでもある。

    水の循環、私たちの命を繋ぐ循環である。

    このホームページにも水たまちゃんの仕掛けがあるので探してみてね!

    いま、ここにある、あらゆる命は過去と未来を繋ぐ命のかけら。人だけでなく、木々や草花、動物たち、あらゆる存在に敬意を払う。

    そういう、あまりに単純なことが頭でっかちになった今失われてきているようにも思う。

    滑川渓谷。どこからこの水はくるのか?

    TVやネットでは情報は溢れ、嘘とも真ともしれないことが垂れ流され、流行り病や争いが絶えず人々は分断している。政治はどこへ向いているのかもわからない。コンクリートに固められた道や川の護岸。天候不良、病を訴える人も多く街は病院や薬局といった無機質な箱物に溢れている。子どもたちは白き布で口を覆い、自由に遊ぶ場所さえ探すのがむずかしそうだ。息苦しさを感じているだろう。。

    私たちは具体的に何をすべきか。

    それぞれに考え、一歩踏み出そう。

    まずは裸足になり土に立ち、息をふーと吐いてみる。いまここから大地を踏みしめる。

    意識すべきツボは、百会、大椎、膻中、関元、湧泉。

    ダッシュして、物質的に重くなってしまった自分自身の体にハタと古い記憶が蘇った。

    そんな春分の日。

    こちらは冬至の白石の鼻。

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    てんたん

    心は旅人。山のこと、東洋医学のことなど気ままに書いてみようと思います。